このピアノには“再生”という言葉がふさわしい

アーティストインタビュー
安部 潤さん(音楽プロデューサー、アレンジャー、ピアニスト、キーボードプレイヤー)

アレンジャー、プレーヤーとして

── 大学時代からセミプロ的に活動し、そのまま音楽業界に入った安部さんですが、1992年に東京に活動拠点を移されます。

ヤマハの音源制作の仕事など、福岡で仕事をしている中でネットワークが広がっていき、そこでアレンジャーの船山基紀さんと知り合うことができました。自分自身音楽を仕事にしてはいましたが、さらにステップアップというか、本格的にアレンジャーとしてメジャーな場で楽曲制作に関わりたいという思いがあったので、船山さんの事務所にお世話になる形で上京しました。
 

── 船山さんといえば、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」の編曲で1977年の日本レコード大賞を受賞。筒美京平さんとのコンビで数多くのヒット曲を世に送り出しています。Wikipediaによると歴代編曲シングルの売上枚数は日本歴代2位。まさに日本を代表するアレンジャーですね。

自分のキャリアをこうした方の元でスタートできたのは、今の自分を考える上で大きかったです。上京した時の目標は、CDにアレンジャーとしてクレジットされるってことで、自分としてはそれなりの時間がかかるかなと思っていたのですが、幸いにもすぐにチャンスが訪れました。

ヤマハピアノサービス横浜センターにて

── その第1作となったのは?

東野純直くんというシンガーソングライターの作品です。ちょうど彼が当時ヤマハが主催していたMusic Questというアマチュアミュージシャンを対象にしたショーケース・コンテストで審査員特別賞を受賞。デビューシングル「君とピアノと」を制作するにあたって、僕はカップリングの「Rain」という曲のアレンジを担当しました。で、それが認められたのか彼の2枚目のシングル「君は僕の勇気」では表題曲、カップリングの双方を担当させてもらって、これが30万枚のヒットになりました。
 

── 最高のアレンジャー(メジャー)デビューといえますね。

今でこそ若いアレンジャーが活躍してますけれど、当時はおそらく業界では自分が最年少くらい。その意味でも運が良かったといえますし、抜擢してくれた方からすると、相当覚悟がいったんじゃないかと。20代前半で大した実績のない若手にチャンスをいただけたことは感謝しかないです。
 

── アレンジャーとして作品に関わる一方、プレーヤーとしての安部さんはどうだったんでしょう。自分のアレンジ作品には鍵盤として参加するという形だったんでしょうか。

いや、当時は自分で弾くってことはほぼしていなかったんです。純粋にアレンジャーとして参加するだけで。錚々たるスタジオミュージシャンがいる中、CDに自分の演奏なんておこがましいというか、まだそのレベルに達していないと自分では思っていたので。一方でそういう素晴らしいミュージシャンがアレンジャーである自分の要求に対して、どういうアウトプットを提示するのかっていう、一流のプロの仕事を体感できたこと、その経験は後のプレーヤーとしての自分にとって大きな財産になりました。

特に影響を受けた、勉強をさせてもらったのは山田秀俊(ピアニスト、キーボーディスト)さんですね。70年代にはかぐや姫、五輪真弓、八神純子など、80年代には松田聖子、中森明菜など数多くの作品に関わった大御所スタジオミュージシャンで、バッキングはもちろん、バラード曲などはピアノひとつで世界観をつくれる方です。まだ駆け出しの僕なんかにも優しくて、質問するとなんでも教えてくれる。ある時にはスタジオにヤマハのMIDI付きのグランドピアノがあって、それで山田さんのプレイを記録させてもらったなんてこともありました。
 

── そういう時期を経て、徐々にプレーヤーとしてレコーディングに参加する機会も増えていった?

20代はほぼJ-POPが中心でしたが、30代に入る頃から自分の根っこでもあるジャズ、フュージョンのセッションもやるようになって、2004年に憧れのミュージシャンだった櫻井哲夫(ベース)さん、鳥山雄司(ギター)さん、松下誠(ギター)さんなどに参加いただき、1stソロアルバムの「THE SENSIMILLIA FAMILY TREE」をリリースできました。今振り返ると、「知り合い関係みんな呼ぼう」という感じて、やりすぎた感もしないではないんですが(笑)、自分にとっては大好きだったフュージョン、しかも自分名義のアルバムで、そんな方々と共演できた夢のような時間でした。

 
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